昭和一桁生まれのある人生(2):陸軍幼年学校〜現在

「昭和一桁生まれのある人生」

河瀬渓水



これまでのお話:(昭和一桁生まれのある人生(1):誕生〜中学校時代)


「陸軍幼年学校時代」

中学二年生を終了し、陸軍幼年学校へ入学した。十六歳の時、両親と別れました。
幼年学校の生活は朝から夜まで規則正しいものでした。
学科は数学、物理、化学、国語、歴史等のほか、語学は露語(ロシア語)。体育は体操、剣道、教練(ケウレン)等でした。起床ラッパ。食事のラッパ。就寝のラッパとすべて時間定めの生活でした。
校外訓練としては、飯ごう炊飯、野営(天幕組立)、水泳訓練、スキー訓練、山地訓練、行軍などがあった。
(水泳は遠泳最高記録(八キロメートル)を完泳した。)
(行軍は一日四十キロメートルを完遂した。)
陸軍幼年学校三ヵ年の学業を終了し、陸軍予科士官学校へ進学した。陸軍予科士官学校では昭和二十年四月七日、硫黄島から米国の爆撃機が飛来し、入っていた防空壕から五十メートル離れた所に爆弾が落ちた。訓練通り目と耳をふさいで口をあけて爆風に対処していたが、至近弾であったので胸のあたりまで埋まった。埋没者二十九名のうち十二名が悲しくも帰らぬ人となった。
その後も次第に空襲が激しくなり、昼間の訓練で熟睡しているところを数回も起され個人防空壕まで往復した。(通称「たこ壺」)
八月十五日の終戦の日浅間山近くの小学校で迎えた。その日は運動場にみんな土下座させられた。
その後、東京から三日間かかって、八月末に故郷に着いた。むし暑い鈍行列車であったが、時々長時間休憩があった。(駅の広場で飯ごう炊飯をした。)
家に着いた時の姿は色黒く目だけが光っていたそうだ。


終戦後の学生々活」

終戦直後の学生々活は衣食住すべてにわたり今日では想像もできぬ学生生活であった。旧制高校生のシンボルである弊衣破帽(ヘイイハボウ)は卆業まで古い学生服一着で間に合い、先輩から譲り受けた帽子も同様であった。
食事は帰省時使わなかった食券に加えて二食分の食券で夕食一食分に充当することが多かった。
田舎から時々運んで来た「さつまいも」の加工品を焼いたり、「メリケン粉」で手製パンを作った。
食糧を運んで来た時は学友を呼び雑談で時を過ごした。
住は学校近くの下宿で通学には恵まれたが停電も多く、冬は燃料補給のため炭焼小屋の手伝をし、炭を担いで帰り、炭で汚れた上半身を側の小川で洗った。
古本を田舎から運んで来た食糧と物々交換し購入した。アルバイトは夏休み飲料会社で働いたり、農業の手伝いをした。
終戦直後は日本全体の生活が困窮していたから学生生活も当然である。
衣食住は困窮していても心は豊かなものがあった。
戦災を受けていない街の姿、四季の美しさ、そして学生に対する人情の豊かさは終生忘れることができない。


「大学時代」
「大学時代」
高校は文科であったので経済学部を受験した。同郷に先輩があり、いろいろ教導して頂いた。大学には合格したが、高校時代と同じく衣食住には恵まれず、まだ日本の復興は遠く感じた。特に高校時代と比べ住については戦災都市でもありとても厳しく下宿探しも困り家賃も高かった。大学生活の後半は学生寮生活となり経済的負担が軽減された。
手元には当時の本が保管されているが紙質が悪い。専門書は大学の図書館通いで読むことにした。図書館は静かで落ち着いて勉強できた。春休、夏休、冬休は帰郷し、家の仕事(農業)の手伝をした。現金収入はないが、労働不足の我家では貴重な労働力となった。(春休:田畑の耕作ほか。夏休:田の草取りほか。冬休:山の薪(タキギ)取りほか)
大学の単位も順調に取得できたので就職活動に入った。


「社会人へ巣立ち」

金融関係の会社からの求人表の中で銀行を選び受験した。
入社試験の第一回は大学所在地の支店で「学科試験」「身体試験」「支店長面接」等があった。第二回の試験は本店で重役面接が行われた。合格通知は電報で来た。
入行後講習があり、支店配属となった。出納係に配属され先ず紙幣勘定の練習(縦読み、横読み)をした。
当時は壱円札があった。小封紙で百枚づつ束ねた。手形交換所に行き小切手、手形類の持出、持帰り等の後方事務をした。算盤の正確迅速を要する手作業で、現在の事務と比較すると今昔の感がある。算盤、紙幣勘定の早朝練習があった。預金係では普通預金もすべて手書きで、まだボールペンも普及していなくてペン書きであった。計算はすべて算盤で行った。利息計算し、年2回の普通預金の決算のしめくくりも支店で行った。電算機のない時代の事務は全く事務の原始時代といえるかも知れません。
当座勘定は各号帳毎に出入管理をした。貸越利息の計算等も支店で計算した。
当座勘定では小切手、手形等の法律知識も事務に併行して研修した。
定期預金、通知預金等の事務も算盤、ペンの使用をした。証書金額は印字機(数字を手動組合わせ)を使用した。
入行した昭和20年代の後半から昭和30年代の支店事務は未だオンラインのシステムがなく、支店で決算期には未払利息(預金)未経過利息(貸付)等の手書き計算の作業があった。
昭和40年代はオンライン(センター集中)移行作業があり支店事務の大きな変化があった。日程事務決算事務で手書事務が姿を消した。事務革新はその後も続き顧客がATMを操作し「入出金」「送金」をする時代となった。各金融機関の資金移動もATMで出来る様になった。硬貨計算機、紙幣計算機の導入で事務のスピード化省力化が計られた。

銀行事務(支店事務)の変遷はめまぐるしく、以上の説明は全く氷山の一角で、支店事務の変化の一端を採り上げたものです。


「思い出」

昭和30年に結婚し出発点は六畳一間の住居でした。当時は文化住宅もなく、ましてやアパートの如き建物もなく、身の丈にあった生活でした。部屋にガス管が一箇所あり、炊事、トイレはすべて一階で共同使用し、風呂は銭湯通いでした。終戦後10年を経過しましたが住居には大変不自由した。
昭和33年には長男が生まれ、社宅生活となった。古い家で空家の大掃除があったが部屋は広くて助かった。
昭和35年長女が生まれ家の中は賑やかになった。
昭和30年代は高度成長時代で仕事も繁忙で子育ては一切妻がしました。現在でしたら父親失格です。
昭和36年秋、第2室戸台風近畿地方に襲来し、支店に復旧作業で3日間宿泊した。
社宅の方も床下浸水があったのですが主人不在の妻はさぞ不安であったことと思います。
近所の社宅の友人が排水作業の応援をしてくれたので助かった。
営業店勤務が六ヶ店(約25年)で出納、預金、為替取引先外交、融資等、第一線の勤務でした。その後は本店勤務(約8年)、退職後は関連会社(3社)に勤務し、70才で完全に「サンデー毎日」となった。

「光陰矢の如し」とか日時の経つのは本当に早く、頭の体操と思って趣味(俳句)を約20年間続けています。


「人生萬事塞翁が馬」凡人にもいろんな事がありましたが知らぬ間に傘寿を越えました。
明日のことは誰にも判りません。
「日々是好日」の額も部屋の一隅に飾っています。

(終り)

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