昭和一桁生まれのある人生(1):誕生〜中学校時代

「昭和一桁生まれのある人生」

河瀬渓水



手元には小学校時代の日記が残っており、小学校六年生の時、宿題で書いた「生立記」があります。先ずこれらを参考資料として幼年期の「自分史」とも云うべきものを記述したいと思います。


「誕生」
昭和二年の春の中頃僕は、
  「おぎゃあー。」
と或る田舎の家に生まれた。僕はこの複雑な人間世界をさも珍しそうにぱっちりと小さなまるい生き生きした目を輝かしながら見はったということである。


「短気坊主」
ある日のことである。いつも二週間ぐらいたつと父が学校から帰り道、おもちゃか、繪本を買って帰られる。父が忘れられて帰られた。さあー。僕のきげんは悪くなった。そこらにある茶わん、コップなどをつまみあげ、地べたにぶっつけた。炊事をしておられた母が、「そんなことをしては・・・」といわれるが早いか僕のほほを強くぶたれた。


「汽車ごっこ
僕の遊びはいつも決まっていた。三輪車をひっくりかえし、それを廻して、
「ぽー。ぽー。ぽー。」
と汽車のまねをする。そしていくつも後に箱をつなぎ、それに近所の鼻たれ「のぶチャン」や「出齒のしげチャン」や、泣きびその「みそチャン」なども手下にして乗せ、得意に機械をいじくる真似をしながらちっとも動かない汽車を運転する。これが僕の得意であった。
このほかの遊びとしては、
ぶらんこ。すべり台。凧揚げ。陣取(敵・味方に別れて相手の陣をすばやく取る)。こま廻し。等があった。(幼稚園時代)



尋常小学校生活」
小学校の運動場の端には奉安殿(尊い人、物を安置する所)があり、奉安殿を毎日拝んでいた。
いよいよ校庭の桜も咲き読本の中の
「サイタサイタ。サクラガサイタ。」
というのを習い始めた。
僕達は毎日近所の友達とさそいあって学校へ行った。


「朝会式」
受持の先生の合図で一年生から五分ばかり静坐が行はれる。静坐が終り宮城遙拝がある。その後、校長先生、看護当番の先生のお話があった。
唱歌では先生がピアノをひかれるとみんなそろって小雀がかわいい口をあけるように、
「テッポウカツイダヘイタイサンーアシナミソロエテアルイテル」など唱った。


「圖画(ヅガ)」
人をかく時はいつも定まっていた。
頭をまるく、胴を三角形に書いた。景色を書く時は山、家、を書き山の上には日の丸の旗を立てた。


「手工」
最初折り紙だった。「かぶと、やっこ、はかま」「つる」「きんぎょ」といろいろの物を作っていた。


「運動会」
待ちに待った運動会がある。
ラヂオ体操をすませ僕達一年生の徒競走だ。
「用意」「ドン」とピストルが鳴るが早いかとび出した。僕達はもう夢中だ。応援の声、旗の波で先が見えなくなる位だ。僕は二人ぬき越して決勝線へ飛び込んだ。上級生の女子の人が二等の所へつれて行かれた。後をふり返って見ると次の組がかけ出していた。


「お正月」
「もう幾つ寝たらお正月」
と歌を歌っているうちに本当に楽しいお正月が来た。
「あーちゃん。凧を揚げよう」
「うん。揚げよう」
僕達は凧揚げが大好きだった。
「ビュンー」「ビュンー」と糸がうなる。「凧」も時々宙返りをする。
家では「双六(スゴロク)」「かるたとり」などをした。


「転校」
二年生の時、父の転勤があり転校した。
算術などで暗算をされる時などは少しも油断ができない。黒板に数字を書かれたかと思うともう消されていてその数字を足して答えを言うのである。
毎日の宿題は漢字を五百以上書いて来ることや、算術では今日習ったことを復習して来ることであった。


「鮠(ハヤ)釣り」
*(注)鮠:きれいな川の中流にすむさかな。からだが細く、わきに筋が一本走っている。)
僕の家の近くに川があった。夏になると川へ行って「ふな」や「はや」などを釣った。餌は「みみず」をつけた。勢よく水中に餌を投げた。太陽がじりじりと麥わら帽子に照りつけた。
「ピクッ、ピクッ」と何かが餌をひいた。釣竿を勢よく上げる。
空中には銀色をした「はや」がぴんぴんとおどって輝いている。
夏の暑い日は川端の草かげの涼しい所で「はや」を釣ったものだ。


「早起会」
早起会でお寺へ行った。五時頃家を出る。
釣鐘堂へ上り、思い切って
「ゴーン、ゴーン」と鐘を打つ。みんなで元気よく体操をする。そのあと唱歌もした。


「書道の会へ入会」
僕は書道の会に先生のおすすめで友達と入会した。二年生の二学期に入ってからは毎日書道の練習にはげんだ。筆法も出来なかったが先生のご指導で大分書き方というものが分かって来た。


「小学校三年生時代」
僕が三年生の時、父の転勤があり転宅した。
今度の家は海が近く家の裏には畠があり、みかんの木やいちじくの木などがあった。学校は家より二キロメートルぐらい離れており遠い。途中はほとんど海に面していた。
先生が僕を教室に連れて行かれた。
室内には頭のとがったものや、頭の太い者たちが僕の方ばかりを見ていた。
何だか友達がないので前の学校にもどりたいと心の中で悲しんだ。今度の学校の生徒の顔色が黒い。それもそのはず海に面しているからだ。


「進徳日誌」
今度の学校ではみんな「進徳日誌」というのを持っていた。毎日の生活をふりかえりこの日誌によしあしをつける。日誌の中には行うべき題が書いてあって実行されなければ黒星を書き実行されれば白星を書き込むのであった。


「貝拾い」
海岸は貝が多かった。貝のすんでいる様な所を鍬(クワ)でかくと幾つも出て面白かった。「まて」という貝がいて、鍬でかいた後、円形の穴が見つかったら、それに塩をねぢ込むと「しゅっ」としぶきを上げて出て来たものだ。
「まて」は普通長さが六〜七糎(センチ)ぐらいで表面はまるい形をして長く丁度円筒の様であった。


「小学校四年生」
四年生の時は特に習字に力を注いだと思う。夏休みには「書道会」の先生を迎えていろいろ筆法、形などについて習った。

「小学校五年生、六年生時代」

父の転勤があり転宅した。小学校は四校の転校となった。転校ではあるが同じ郡内の転校である。今度の家は高台にあり家からは島が多く眺めもよく景色のよい所であった。
海が近くにあり夏は水泳の講習があった。陸から数十米出ては泳いで帰るのが楽しかった。
学校では平泳ぎと横泳ぎを習った。
海では「いそぎんちゃく」を取った。石をひっくり返すと時々「いそぎんちゃく」が見つかった。
夏休みは祖父母の家へ遊びに行った。
井戸につるして冷やした西瓜(スイカ)を食べるのが楽しみであった。西瓜は自家生産で祖父母が作ったもので、西瓜の熟れ具合を確かめる方法を教えてもらった。蔵には貯米器(チョマイキ)が置かれ一家の食料が保存されていた。その他、お客様用の食器類が保存されていた。(冠婚葬祭は家で行われたのでそのための調度品が備えてあった)冬休みも故郷の家で正月準備の「餅つき」をした。
門松、竹、梅などの飾りはすべて自家製で裏山へ祖父母と取りに行った。家の掃除の手伝、水汲み、風呂炊きと子供にもいろいろ用事があった。農繁期は學校の休みがあり「田植休み」には「苗運び」や「田植の綱引」「苗植え」をした。稻の取入れの時は「稻刈」「稻かけ(稻を干す)」「稻こぎ(足踏み)」の手伝いをした。



「中学校時代」
一年生の時は祖父母の家より学友二人と徒歩通学(学校までの距離が短いので自転車通学ができない)をした。
当時の日記がないが、日中戦争、太平洋戦争という戦時下の学生生活は教練や軍事的な運動が多かった。衣類、靴なども代りが少なく、食糧も次第に粗食となった。
二年生の時は父母の家より先輩、学友等数名と片道約八キロメートルを自転車通学をした。雨の日もバスがなく自転車でがんばった。通学の途中、下り坂は自転車のハンドルを握らず両手離しで下るなとして楽しんでいた。




("昭和一桁生まれのある人生(2):陸軍幼年学校〜現在" へ続く)


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ↑俳句とは 違う自分史 長いけど(息子作)(ぽちっとよろしく)